庄内の歴史と風土

 

庄内の美田を支えるの月山から流れる豊かな水 田植えの頃、雪解け水が田んぼを潤す

晩秋の月山 筆者撮影

松ヶ丘開墾場
 松ヶ岡開墾場 出典 鶴岡市観光NAVI
 1868年(明治元)、庄内藩は江戸幕府軍についた奥羽越列同盟の一員として新政府軍と戦った戊辰戦争が終り、庄内藩は降伏謝罪した。新政府軍は庄内藩士にすべて城外に退去すること求めた。1871年(明治4)には廃藩置県が行われ、酒井藩旧藩家老菅実秀は、旧藩士の先行きを考えて、養蚕によって庄内を再建しようと開墾場を拓いた。
松ヶ岡開墾場 開墾作業風景 出典 鶴岡市
 1872年(明治5年)8月、旧庄内藩士3,000人によって月山山麓の荒れ地、後田山地区で開墾を始め、10月には106ヘクタールの開墾を完了。
 旧藩主酒井忠篤公、開墾藩士を激励して、木札に「松ヶ岡」と揮毫、経塚丘上に立てる。これが開墾場の名称、「松ヶ岡開墾場」となる。
 1874年(明治7年)には311ヘクタールに及ぶ桑園が完成し、桑苗植付551,600本に達した。翌年には蚕室4棟落、蚕種を飼育し、その繭より蚕種800枚を生産して初めて横浜に出荷し好評を得た。そして開墾士家族の移住が始まる。
 明治8~10年には大蚕室合計10棟が建設され、鶴岡市内に製糸工場と絹織物工場が創設された。
松ヶ岡開墾場全景 出典 鶴岡市
松ヶ岡開墾場五番蚕室 出典 鶴岡市
松ヶ岡開墾場五番蚕室2階 出典 鶴岡市
松ヶ岡開墾場_種繭撰り 出典 鶴岡市
 1989年(平成元年)国の史跡に指定され、大蚕室5棟、藤島より移築された本陣(開墾創業時に松ヶ岡本陣とした)、新徴屋敷(庄内藩江戸取締の際その配下となった浪士組織新徴組のために藩が建てた100棟の住宅のうち30棟を松ヶ岡に移築し、開墾士の住宅とした)などが保存されている。また蚕室は開墾記念館、ギャラリー、侍 カフェ、くらふと松ヶ岡、庄内農具館などに利用され、庄内映画村資料館も併設されている。
松ヶ岡開墾場の蚕室を建築した棟梁は、当時の名匠高橋兼吉ら2名で、養蚕業の先進地であった上州島村田島家の蚕室を模して建造したといわれている。
 大きな柱、大きな梁をもつ和風構造形式の建築で、桁行21間(37.8m)、梁間5間(9m)。2階の腰窓には和風建築独特の無双窓をつけ、また2階建ての上に通風換気のための越屋根をとりつけた、通風のバランスを考えた構造である。屋根には同8年にとりこわされた鶴岡城の瓦が使われている。
 旧庄内藩が取り組んだ松ヶ岡開墾場は、明治維新の廃藩置県により日本各地で録を失った士族の授産施設として数少ない成功例とされている。庄内藩の旧藩士の卓越した団結力、粘り強い熱意と努力が成功をもたらしたと思われる。
松ヶ丘開墾場の蚕室のルーツ
近代養蚕の父 田島弥平
 安政6年(1959年)、江戸幕府は横浜を開港、当時ヨーロッパの養蚕地帯、北イタリアや南フランスでは蚕病(微粒子病)が猛威を振るいに蚕種(さんしゅ=カイコの卵)の確保が緊急課題となっていた。フランスが目を付けたのが日本の蚕種、江戸幕府に輸出の解禁を迫った。1965年輸出が全面解禁されるとユーロッパに蚕種が大量に輸出される。
蚕種は、蚕蛾に産卵させた紙の蚕紙で、蚕種製造業者によって製造された。養蚕農家はこの蚕種紙を購入、孵化させて蚕を飼育し繭を生産する。
上州佐位軍島村(現伊勢崎市境島村)は、江戸時代中期から蚕種の生産が盛んな地域、その地の豪農、田島弥平は蚕種製造の有力農家だった。
田島弥平は田島武平らともに明治5年(1872年)には蚕種を生産・販売をする島村勧業会社を設立、養蚕にも乗り出し養蚕業の発展に尽力する。
 中でも、養蚕技術では、通風を重視した蚕の飼育法「清涼育」を確立し近代養蚕の基礎を築いた
田島弥平旧宅  出典 文化財オンライン
世界遺産「田島弥平旧宅」(伊勢崎市)
 田島弥平が建てた1階が住居で2階が蚕室の住居兼主屋(おもや)と換気のために屋根上に設置した「越屋根」と呼ばれる「やぐら」構造の建物は、「島村式」蚕室として近代養蚕農家の原型となり全国に普及した。
 伊勢崎市に残る「田島弥平旧宅」は、2014年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「富岡製糸場と絹産業遺群」として、富岡製糸場と共に生糸の大量生産を開発して絹産業の発展に貢献したとされ登録。
 旧庄内藩の士族は、田島弥平のもとに実習生として派遣され、養蚕技術を習得し、田島弥平宅の蚕室とほぼ同型の建物を松が岡開墾場(山形県鶴岡市)を建てた。
 現在も5棟の大規模蚕室が松ケ岡開墾場残り、国史跡に指定されている。この蚕室を基盤に明治20年(1887)松岡製糸場が設立された。
庄内歴史秘話 民衆のチカラ 三方領地替え阻止運動
百姓たりと雖も(いえども)二君に事(つか)えず     藩主の領地替え命令 立ち上がったのは…

 

 

 天保十一年(1840年)十一月、庄内藩主酒井家は、転封(てんぽう)、領地替えを命じられた。酒井家を越後国長岡に、長岡藩主牧野家を武蔵野国川越に、川越藩主松平家を出羽国庄内にという「三方領地替え」であった。
 時の将軍は12代の徳川家慶(いえよし)、しかし、実権を握っていたのは将軍の座を譲って「大御所」となっていた徳川家斉(いえなり)だった。
 転封令が出された狙いは、当時財政難に陥っていた川越松平家の救済だった。
 川越松平家の当主、松平斉典は姻戚関係にあった徳川家斉に働きかけて、経済的に豊かな土地に移ろうと画策する。そこで白羽の矢が立ったのが庄内だったのである。

出典 民衆のチカラ 致道博物館

 庄内では酒井家の転封を阻止しようと民衆が結集、数万人規模の大集会を繰り広げ、村々の代表者たちが江戸上って幕府の要人や諸大名に直訴を繰り返した。民衆のエネルギーがうねりとなって幕末の時代を揺れ動かす。
 翌年、7月、最終的にこの転封を推し進めていた大御所、徳川家斉の死が重なり、幕府は転封を撤回した。極めて異例の決着である。江戸時代の幕藩体制の終わりを告げる胎動が感じられる象徴的な事件と捉えることができる。
 一致団結して阻止運動を繰り広げていた民衆は多くの記録を残している。鶴岡市の致道博物館では、酒井家庄内入部400年記念特別展として「民衆のチカラ 三方領地替え阻止運動」と開催、「雖為百姓不事二君」(百姓たりと雖も二君に事えず)の幡(個人蔵)や「夢の浮橋」絵図(致道博物館蔵 寄託)、「四方喜我志満」(本間美美術館寄託)、「合浦珠」((致道博物館蔵)、「保定記」(酒田市光丘文庫寄託)んど事件後に作成された様々な資料を展示して、「三方領地替え阻止運動」の軌跡を探り、大きな評価を得た。

出典 民衆のチカラ 致道博物館

朝日新聞 天声人語 「農民たちの義挙」
2019年2月23日


「百姓たりといえども二君に仕えず」。農民たちがのぼりをはためかせ、ほら貝を吹き鳴らす。江戸後期の天保年間、庄内藩で起きた藩主転封阻止運動に関する史料を、地元山形県鶴岡市の致道博物館で見た(3月13日まで)▼世に言う「三方国替え」騒動である。庄内、長岡、川越の3藩主は玉突きで交代せよ。幕府の命令が、庄内の農民たちの抵抗を呼び、翌年撤回されるまでを絵と文で伝える。地元出身、藤沢周平の小説『義民が駆ける』でご存じの方も多いだろう▼展示中の史料は数点だが、庄内の歴代藩主と領民の信頼はかなり厚かったようだ。ただ蜂起にはより切実な事情があった。「新たに来る殿様は苛政(かせい)で知られた。血も涙もない年貢の取り立てを領民は恐れたようです」と館長の酒井忠久さん(72)。転封を免れた藩主酒井家の18代当主である▼重税や飢えに苦しみたくなければ、危険を冒して幕府に訴え出るほかない――。領民たちは幾度も江戸へ向かい、家老らに駕籠(かご)訴を敢行した。無謀とも思える実力行動は、江戸で忠義の挙と評判を呼ぶ。他藩主たちをいたくうらやましがらせた▼驚くのは、村々の指導者たちの戦略である。江戸に出たら正装などせず野良姿をさらして同情を引け。国替えに巻き込まれた他藩の農民をたきつけよ。そんな策を連発したという▼幕命撤回は1841年、盤石だった幕府の権威が揺らぎつつあったころだ。庄内の農民たちのしたたかさと情勢判断力、果敢な行動に改めて感じ入る。(朝日新聞 転載)

致道博物館

 

致道博物館は、郷土文化向上のために旧庄内藩主酒井家より、伝来の文化財や土地、建物の寄贈を受け、昭和25年(1950年)の設立。 敷地内には重要文化財建物3棟や名称庭園があり、庄内地方の歴史・文化資料などの展示を見ることができる。美術展覧会場では、年間を通して企画展示が開催され徳川四天王筆頭・酒井忠次を祖とする酒井家伝来の貴重な資料や庄内の優れた美術品が紹介されている。「致道」の名称は、庄内藩校致道館に由来し、「論語」の一節、「君子学んで以て其の道を致す」がその出典である。

 

 





旧田川郡役所 筆者撮影


旧鶴岡警察署庁舎 筆者撮影


旧渋谷家住宅(多層民家) 筆者撮影